2014年04月30日

葛飾北斎

◎{葛飾北斎(1760〜1849):浮世絵師

 
2014年04月30日

葛飾北斎.jpg北斎漫画.png


代表作に『富嶽三十六景』『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家です。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏.jpg赤富士.jpg甲州石班沢.jpg

森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は『富嶽三十六景』の発表により不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰であったが、達者な描写力・速筆は『北斎漫画』の中にも見ることが可能である。更に、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったこと等は、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後にはフィンセント・ファン・ゴッホ等の印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画{この1,000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人}で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く孫弟子も含めて200人近いと云われる。

宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)武蔵国葛飾郡本所割下水江戸本所割下水。現東京都墨田区の一角)にて貧しい百姓の子として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎。後、鉄蔵と称す。通称は中島八右衛門
 明和元年(1764年)4歳幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、後に実子に家督を譲り家を出る。その後、貸本屋の丁稚木版彫刻師の従弟となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す
 安永7年(1778年)18歳浮世絵師勝川春章の門下となる狩野派や唐絵西洋画等あらゆる画法を学び名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵等も描いた。この頃用いていた号は{春朗}であるが、これは師春章とその別号である旭(きょく)朗(ろう)井(せい)から1字ずつもらい受けたものである。
 安永8年(1779年)19歳役者絵瀬川菊之丞 正宗娘おれんでデビュー
 寛政6年(1794年)34歳勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからとも云われるが真相は不明である。ただ融川以外にも、堤等琳についたり、『芥子園画伝』等から中国絵画をも習得していたようである。
 寛政7年(1795年)35歳、{北斎宗理}の号を用いる。
 寛政10年(1798年)38歳、{宗理}の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは{北斎}{可侯}{(とき)(まさ)}を用いる。
 享和2年(1802年)42歳狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始
 文化2年(1805年)45歳、{葛飾北斎}の号を用いる。
 文化7年(1810年)50歳、{戴斗}の号を用いる。
 文化9年(1812年)52歳、秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂・和州吉野・紀州・伊勢等)方面へ旅行する。
 文化11年(1814年)54歳『北斎漫画』の初編を発刊
 文化14年(1817年)57歳、春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、関西(大坂・伊勢・紀州・吉野等)へ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。
 文政3年(1820年)60歳、{為一}の号を用いる。『富嶽三十六景』の初版は文政6年(1823年)63歳に制作が始まり、天保2年(1831年)71歳に開版、同4年(1833年)73歳に完結する

葛飾北斎2.jpg

 天保5年(1834年)74歳、{画狂老人}{}の号を用いる。『富嶽百景』を手がける

北斎3.jpg信州小布施龍図.jpg

 天保13年(1842年)82歳 、秋初めて信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は自宅に碧漪(へきい)(けん)を建てて北斎を厚遇した

 鳳凰.jpg

 天保15年(1844年)84歳信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)88歳まで滞在『怒涛図』等を描く

昇り龍.png八方睨み鳳凰図.jpg

 嘉永2年4月18日(1849年5月10日)89歳江戸浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった。

葛飾応為.jpg

〔葛飾応為(娘)作〕


★参考サイト⇒

参考サイト1:こちらです。

参考サイト2:こちらです。

参考サイト3:こちらです。

参考サイト4:こちらです。

 



posted by 心野琴線 at 00:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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