2014年08月01日

セルゲイ・ディアギレフ


セルゲイ・ディアギレフ(1872〜1929)Sergei Diaghilev:バレエ・リュス<ロシア・バレエ団>の創設者天才的興行師

2014年08月01日

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ウラル山脈に近いロシアのペルミにおいて比較的裕福な地方貴族の家庭に生まれた。父の再婚に伴ってペテルブルクで幼少時代を過ごし10歳の時にペルミに戻る
 1890年18歳ペテルブルク大学に入学し法科に在籍するが、本業である法律の講義にはほとんど出席せず芸術家を志して声楽作曲を学ぶ一方マリインスキー劇場などで行われる演奏会に頻繁に通った。また、従弟ディーマ・フィロソーフォフを通じて、後に『芸術世界』で活動を共にするアレクサンドル・ブノワヴァレンティン・ヌーヴェリレオン・バクスト(当時はレフ・ローゼンベルク)らと知り合い芸術談義に花を咲かせた。そして1892年(20歳)には{ディアギレフ}は既に熱狂的なワーグナー教信者だった
 作曲の師であるリムスキー=コルサコフから作曲家としての才能の欠如を指摘され自ら芸術家となることは諦めた
 {【挫折した野心】;【女性と上手く付き合えない】;【従弟ディーマ・フィロソーフォフへの熱中ぶり】}、{ディアギレフの人生を複雑なものにしていた
 1895年(23歳)春、{ディアギレフ}は突然美術に熱中し始める
 1896年(24歳)、{ディアギレフ}は{時事株式新聞美術批評を書き始める
 1896年(24歳)、{イギリス・ドイツ水彩画展(ロシア以外の美術を紹介した展覧会としては、ロシア史上最も重要で最も芸術的に豊かな展覧会の一つ)}ディアギレフたった一人で作り上げた
 1898年(26歳)、{ディアギレフ}は雑誌『芸術世界』ミール・イスクーストヴァ)発行の実現に向けて、{テニシェワ公爵夫人鉄道王サッヴァ・マーモントフスポンサーになってもらったが2年目には2人ともスポンサーから手を引いてしまった、そして新たにロシア皇帝ニコライ二世助成金を出してくれることとなった
 大学卒業後西欧各地を旅行して絵画を買い漁り、1897年25歳以降6回にわたって自前の展覧会を開催する。1898年26歳に行われた2回目の展覧会では皇帝一家をオープニングセレモニーに招待し、皇帝ニコライ2世の伯父ヴラジーミル・アレクサンドロヴィッチ大公との知己を得た。同年にはブノワバクストらと雑誌『芸術世界』ミール・イスクーストヴァを刊行。1904年の廃刊まで、ビアズレーモネを初めとする西欧の新しい美術や、ロシアの前衛画家の作品、更に歌川広重葛飾北斎にいたる幅広い芸術を紹介し続けた。
 これらの活動のロシアにおける総決算として、1905年33歳サンクトペテルブルクのタヴリーダ宮殿を会場としてロシア歴史肖像画展を開催する。帝室のコレクションや全国各地から集めた約3,000点が展示され、バクストが室内装飾を担当した。当時のロシアは日露戦争の敗色が濃厚となり、1月には{血の日曜日事件}が起こるなど極めて不安定な情勢にあったが、ニコライ2世を初めとして多くの人々がつめかける盛況ぶりであった。
 これより先、ディアギレフは『芸術世界』への寄稿者で、帝室マリインスキー劇場の支配人ヴォルコフスキー公爵の推薦により1900年28歳に{帝室劇場運営特任要員(政府職員)}に任命されていたが、組織内の軋轢が原因で1901年29歳に罪人同様の扱いで追放処分となった
 1904年(32歳)にアメリカのダンサーイザドラ・ダンカンがペテルブルクを訪れロシアの舞踊界に決定的な影響を与えた
 1906年34歳パリのプチ・パレにてヴラジーミル大公を組織委員長とするロシア人画家の大々的な展覧会を開催し、この成功により、フランス文化界や社交界と交流するきっかけを掴んだ

パリでの展覧会の成功により、パリの興行師ガブリエル・アストゥリュク、及び彼が創設したパリ音楽協会会長を務め、社交界に影響力があったグレフュール伯爵夫人に接近し、その協力・後援の元、パリで大規模なロシア音楽の演奏会を企画した。ディアギレフはかつての作曲の師であるリムスキー=コルサコフの他、当時のロシアを代表する作曲家や演奏家に交渉して出演許可をとりつけた。その一方で、作曲家としては評価していなかったが、政府の要職にあったタネーエフを巻き込むなど、政治上のしたたかな配慮も欠かさなかった。
 1907年(35歳)5月に行われた{パリ・オペラ座における五夜連続の歴史的ロシア音楽コンサート}では、ラフマニノフ自身のピアノによる『ピアノ協奏曲第2番』を初めとして、リムスキー=コルサコフスクリャービングラズノフらが自作を演奏し、アルトゥール・ニキシュ指揮によるチャイコフスキーの『交響曲第2番』や幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』等が披露され、大成功を収めた。特にフョードル・シャリアピンによるオペラ『イーゴリ公』の抜粋や『ボリス・ゴドゥノフ』のアリアは聴衆を魅了した
 この成功に味を占めたディアギレフは翌1908年36歳シャリアピンを主役に据えてモデスト・ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』全幕の上演をパリ・オペラ座で実現させた。その準備は困難を極め、2,300人の招待客の前で行われた公開リハーサルは、大道具が使えず、普段着のままで行われ、ディアギレフ、ブノワ、バクストらが臨時の舞台係をつとめた。綱渡りのような状態であったにも関わらず、本番の舞台は大成功でパリの聴衆はシャリアピンの歌と演技力に感嘆した
 1908年秋(36歳)のある時期から、{ワスラフ・ニジンスキー{ディアギレフ}は親密となり、それから5年間に渡り情熱的な愛情関係を続けた
 更に翌1909年37歳、帝室マリインスキー劇場の夏季休暇を狙って劇場専属のバレリーナや大道具、小道具、スタッフを借り、オペラとバレエを中心としたロシア音楽演奏会第3弾を企画するが、間際になって最大の後援者ヴラジーミル大公が死去、ディアギレフをよく思わない人々の讒言によって、ロシア帝室からの資金援助、帝室劇場の道具貸し出し、ロシアでのリハーサル会場の使用許可すべてが取り消された。幸いにもバレリーナとスタッフの貸し出しは許可されたため、ディアギレフとアストゥリュクは奔走して資金をかき集め、リハーサル会場を確保し、プログラムをバレエ中心にしたものに変更した。
 こうして、1909年(37歳)5月19日、大改装されたシャトレ座で行われたセゾン・リュスロシア・シーズン)}では、帝室劇場のレパートリーに手を加えた『アルミードの館』『イーゴリ公』より{韃靼人の踊り}『レ・シルフィード』『クレオパトラ』等が披露され、{アンナ・パヴロワ}や{ワスラフ・ニジンスキー}、{タマーラ・カルサヴィナ}等、ロシアで最も優れた若手舞踊家の踊りや、{韃靼人の踊り}における勇壮な男性ダンサーの群舞は、19世紀後半からバレエが芸術ジャンルとしては凋落してしまっていたパリの観客に衝撃を与え、この夜の公演は{20世紀劇場史における伝説的な出来事}として語り継がれて来た。この公演はあくまでも臨時のバレエ団によるものであったが、事実上{バレエ・リュスの旗揚げと見なされる。
 『アルミードの館』の上演では、プリマ・バレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤの代役として輝かしい若いダンサー{アンナ・パヴロワ(1905年の学生運動の指導者の一人でもあった)}が自ら進んで名乗り出た。
 1909年(37歳)、『アルミードの館』開幕当初{アンナ・パヴロワ}がいなかったため、{ワスラフ・ニジンスキー}を巡る{広報活動}がぐんと増え、{ヴェストリス(18世紀フランスの伝説的ダンサー、オギュスト・ヴェストリス)の再来}と銘打たれた。
 {ディアギレフ主催のパーティ}で{イザドラ・ダンカン}は{ワスラフ・ニジンスキー}の隣に座り、{ニジンスキーさん、是非とも私達は結婚しなくては、どんなに素晴らしい子供達が生まれるか考えてもごらんなさい、神童が生まれますわ、ダンカンとニジンスキーのように踊る天才がね}と言ったが、{ワスラフ・ニジンスキー}は{自分の子供にはダンカンのように踊って欲しくない、それにそもそも自分はまだ結婚するには若過ぎる}と答えた。
 バレエ公演は芸術的に大成功であったが7万6,000フランの借金を抱えたディアギレフは、大道具や私物にいたるまで差し押さえられて実質的に破産状態となった。このような状態にありながらも、ディアギレフは将来の公演のためにラヴェルに『ダフニスとクロエ』(<バレエ・リュスが上演したすべての作品の中で最高傑作の一つ)、ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲を依頼し、更にロンドンへ渡り公演会場探しを行った
 翌1910年38歳、再び結成されたディアギレフのバレエ団は、オペラ座において新作『火の鳥』の他、バレエ用に改編したリムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』等を上演しまたしても成功を収めた。この公演では踊りもさることながら、ブノワバクストらによる舞台美術も注目を浴びた。『芸術世界』以来の同士であるバクスト、ブノワは{バレエ・リュス}においても芸術監督として協力した。彼らが協同して、ショウ的要素のあるバレエというわりあい複雑な形態を発展させたのは、貴族にだけではなく一般大衆にもアピールするようにとの意図からだった。ロシア・バレエ団のエキゾチックな魅力は、フォーヴィスムの画家や、勃興しつつあったアール・デコ様式(たとえばイラストレーターのジョルジュ・バルビエら)に影響を与えた。

1911年〜1912年には、{牧神の午後}{青神ジャン・コクトーが台本を書いた)}といった{ミハイル・フォーキン振付による作品の稽古をしていた

1912年(40歳)5月13日、{パリ公演}は{青神}と{タマール}で幕を開けた。

牧神の午後}は1912年(40歳)5月29日に初演される

牧神の午後初演の2週間後、{お抱え振付家だったミハイル・フォーキンが一座を去った

1913年(41歳)5月28日{春の祭典初演、6月5日には{ホヴァンシチナ初演

ピカソ}は、{バレエ・リュス}に数年前に入団したダンサー{オリガ・ホフロワ}に恋していたため{ディアギレフ}の計画に深く関わっていた。

その頃、オランダの田舎町から{グリーチェ・ツエレ(マタ・ハリ)}という風変わりな女性がやって来て、{イダ・ルビンシュタイン}が辞めた後釜のダンサーとなった。
 2度のバレエ公演を成功させたディアギレフは、1911年39歳に借り物ではない、常設のバレエ団バレエ・リュスロシア・バレエ団)}を結成した。{バレエ・リュス}でのディアギレフは{天才を見つける天才}ぶりを発揮して多くの芸術家を動員し、{総合芸術としてのバレエ}という、これまでになかった芸術スタイルを確立した。
 ミハイル・フォーキンワスラフ・ニジンスキーレオニード・マシーンブロニスラヴァ・ニジンスカジョージ・バランシンらが独創的な振付けを行い、『火の鳥』以後、『ペトルーシュカ』(1911年39歳)、『春の祭典』(1913年41歳)、『プルチネルラ』(1920年48歳)、『結婚』(1923年51歳)等を作曲したストラヴィンスキーの他、ラヴェル『ダフニスとクロエ』、1912年40歳)、ドビュッシー『遊戯』、1913年41歳)、プロコフィエフ『道化師』、1920年48歳『鋼鉄の歩み』、1925年53歳)、サティ『パラード』、1917年45歳)、 レスピーギ『風変わりな店』、1918年46歳)、 プーランク『牝鹿』、1923年51歳)等、多くの作曲家がディアギレフの委嘱に応じてバレエ音楽を作曲し、ピカソマティスローランサンミロ等の画家が舞台美術を手がけた。また、ミシア・セールを初めとするパリ社交界のパトロン達や、ココ・シャネルは{バレエ・リュスの活動を金銭的に援助した
 {バレエ・リュス}では新曲ばかりでなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』『眠れる森の美女』や、アダンの『ジゼル』等も上演された。また、ディアギレフはオペラ上演にも関わり続け、リムスキー=コルサコフ晩年の一連の歌劇 『プスコフの娘』『五月の夜』『金鶏』の他、ストラヴィンスキーの新作『マヴラ』等をバレエと並行して取り上げた。
 1920年代からは新興のスウェーデン・バレエ団や、かつてバレエ・リュスに協力したこともあるイダ・ルビンシュタインの一座が{バレエ・リュス}の地位を脅かし、後期の{バレエ・リュス}は「知的に過ぎる」「余りに近代的である」と見なされ、その公演は無条件で成功というわけには行かなくなったが、それでも最後まで新しいスタイルによるバレエを生み出し続けた。
 ディアギレフは1929年57歳のシーズンが終わった7月から8月にかけて、若き作曲家イーゴリ・マルケヴィチを連れてドイツやスイスを旅するが、その後、持病の糖尿病が悪化して8月19日にヴェネツィアで客死しサン・ミケーレ島の近辺に埋葬された、世界恐慌が起こる二ヶ月前のことであった。

{ディアギレフ}は{生涯無一文}で生き、{無一文}で死んだ。{ミシア・セールココ・シャネルディアギレフ葬式の費用を出した

バレエ・リュス}は、ディアギレフの死によって解散したが、その団員からはバランシンらのように、ロシアのクラシック・バレエの伝統を米国や英国に移植した者や、バレエ教師セルジュ・リファールのように、パリ・オペラ座で復活を遂げた者を輩出した。

ディアギレフは一生に渡って同性愛者であり続け、性愛の対象を一流の芸術に触れさせて教育するという習慣を持っていた。その相手として最も有名なのは{ワスラフ・ニジンスキー}であり、その後の{レオニード・マシーン}、{セルジュ・リファール}や、最晩年の秘書{ボリス・コフノ}も同性愛の対象であった。
 極度に細菌感染を恐れ、友人が病気になって見舞いに行った際も決して部屋に入ることはなく、馬の吐く息を避けるために屋根のない馬車に乗ることを避けた。また、迷信家でもあり、過去にパリの占い師から「水辺で死ぬ」と予言されたために船旅を恐れたが、結果的には{水の都}ヴェネツィアで死ぬこととなった。

ヴェネツィア}は{ディアギレフ}が{【心の窓】を開け放てる場所}であり、{【思索】や【白昼夢】}に耽ることが出来、{【現実的な心配事】を忘れて、【自分の創造性】を再発見出来た}。

{【ディアギレフ】にとって【ヴェネツィア】は【ヨーロッパ文化の偉大さ】を象徴していた}、{【ディアギレフ】は【ルネサンス芸術】を崇拝し、その時代の建築や音楽については百科事典的な知識を持っていた}。



 
以下に、{セルゲイ・ディアギレフの言葉をご紹介します。



{【具体的なもの】は何も無く、すべてが【静謐】で、概念がぼやけ、【死】が【霊感】や【生命力】と隣り合わせになっている場所}にこそ、{【人生】はあるのです}。



{私の人生の【夢と目的】}は、{【芸術の世界】で【創造的な仕事することです】}。



{【古臭くなった退屈な部分】を【削除する】}ことで、{【曲】は【より良くなるのです】}。



私は{真の【天職】}を見つけました、{芸術家のパトロンになる}ことです。



成功}こそはすべてを埋め合わせてくれ、すべてを償ってくれる


イザドラ・ダンカン}が我々の同志であることは否定しない、我々の掲げる松明に火を点けたのは彼女だ。


 

★参考サイト⇒参考ブログ1では本からの言葉の一部をご紹介しています



参考サイト2:こちらです。

参考サイト3:こちらです。


 



posted by 心野琴線 at 00:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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