2014年07月20日

足利義政


足利義政(1436〜1490):東山文化を築く

2014年07月20日

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母は日野重子であり、永享8年(1436年)に第6代将軍足利義教の3男として生まれる。嘉吉元年(1441年)、父が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された後、同母兄の足利義勝が7代将軍として継いだが、嘉吉3年(1443年)に義勝も早世したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て8歳将軍職に選出され元服を迎えた宝徳元年(1449年)13歳正式に第8代将軍として就任した

当初の義政祖父の3代将軍足利義満父の政策復活させようと試み鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏関東管領上杉氏との大規模な内紛享徳の乱に対しては足利成氏追討令を発して異母兄の堀越公方足利政知を派遣するなどして積極的な介入を行った。更に政所執事伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする将軍側近集団を基盤として守護大名の勢力に対抗して将軍の親裁権強化を図ろうとした。この時期の室町幕府を{義政専制体制にあったとする説も存在している。
 だが、{三魔}と呼ばれる{乳母の今参局御今)・烏丸資任有馬持家}や母重子と正室富子の実家の日野家有力な守護大名等が政治に介入して来て、将軍としての政治の主導権を握ることは困難を極めた。それを思い知らせる事件が何度か起きている。
 当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多く、義政は初めこれらの相続争いに積極的に介入したが、加賀守護であった富樫氏の内紛(加賀両流文安騒動)では管領細川勝元の反対を受けて義政の意のままに相続権を動かすことが出来なかった。宝徳3年(1451年)15歳にも尾張守護代であった織田郷広の復帰を図ったが尾張・越前・遠江守護である斯波義健や守護代甲斐常治の反対を受けて義政の意のままに動かすことは出来なかった。
 一方、享禄3年(1454年)18歳畠山氏のお家騒動が起こり、8月21日に山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して畠山持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。義政はこの問題で義就を支持、29日に政久を匿った細川勝元の被官を切腹させ、11月2日に山名宗全退治を命令、翌3日の山名宗全隠居で撤回、12月6日に山名宗全が但馬に下向した後義就が13日に上洛、義政と対面して家督相続を認められ、政久は没落した。
 義政の義就支持は、細川氏・山名氏に対抗するため、尾張守護代問題で今参局を介して畠山持国を抱き込んだからで、山名宗全の退治命令も畠山義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で山名宗全に討伐された赤松氏の復興を狙ったとされる。赤松則尚は11月3日に播磨に下向しているが、翌享徳4年(康正元年、1455年)19歳山名宗全に討たれている。同年に御教書を発給、この頃から親政を始めたとされる。

享徳3年1454年18歳享徳の乱が発生、関東管領上杉房顕・駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とし、足利成氏は古河に逃れて古河公方を名乗った。関東は膠着状態となり、長禄2年(1458年)22歳に異母兄の足利政知を鎌倉公方として下向させたが、足利政知は鎌倉へ入れず堀越に留まり堀越公方となる。また、畠山義就が上意と称して度々大和に軍事介入したため次第に疎遠となり、長禄3年(1459年)23歳畠山政久が赦免され、畠山政久が死去した後は弟の畠山政長細川勝元に擁立され山名宗全も復帰したため、長禄4年(1460年)24歳に家督を畠山義就から畠山政長に交代させた。畠山義就は抵抗したが、寛正3年(1462年)26歳吉野へ逃れた
 長禄2年22歳不知行地還付政策で寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図ったが、それが原因の1つとなり甲斐常治斯波義敏越前で長禄合戦を引き起こした。斯波義敏享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった甲斐常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い斯波義敏の子松王丸(斯波義寛へ当主を交代させた長禄合戦甲斐常治が勝利したが、直後に甲斐常治も没し関東派遣は見送られた。
 赤松氏は赤松則尚山名宗全に討たれた後も復帰を狙っていたが、長禄元年(1457年)21歳長禄の変後南朝から神璽を奪還、この時は奪い返され失敗したが、翌2年に再び神璽を奪い、8月30日に朝廷に安置義政はこの功績で10月14日に赤松政則を北加賀の守護に任命赤松氏を復帰させた。8月9日に山名宗全が赦免されているが、これは細川勝元と相談の上で行った懐柔策とされる。

義政には正室の日野富子との間に男子があったが、長禄3年(1459年)23歳に早世してしまった。すると富子は実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪に処した。このため、以後は日野富子や伊勢貞親・季瓊真蘂ら将軍側近の権勢が強まった。また、飢饉や災害が相次ぎ、特に寛正2年(1461年)25歳寛正の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらし、一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。このような状況の中、義政は邸宅や日本庭園の造営猿楽酒宴に溺れていった。殊に寛正の飢饉の間に、それを意に介さずに花の御所(京都市上京区)を改築し、後花園天皇の勧告さえも無視したことは悪名高い。
 寛正4年(1463年)27歳母重子が没したため、畠山義就と斯波義敏父子を赦免した。但し、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認められなかった。寛正5年(1464年)28歳勧進能を行い、同年に隠居を考えるようになり、富子との間に嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ養子として次期将軍に決定した
 ところが、寛正6年(1465年)29歳日野富子に男児(後の足利義尚が誕生した日野富子足利義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼んだ。一方の足利義視管領の細川勝元と手を結んだ。この足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。一方で、足利義視を養子にした理由は大御所として政治の実権を握る意図もあったとされ、足利義尚誕生後も足利義視の立場を変えなかったのは足利義尚が成長するまでの中継ぎにするためともされる。
 寛正2年(1461年)25歳斯波氏の家督交代を行い松王丸を廃嫡して渋川義鏡の子義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方政知の執事である渋川義鏡を斯波氏当主の父という立場で斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、その渋川義鏡は関東で上杉氏と対立し失脚してしまったため、渋川義鏡から斯波義敏に交代して改めて関東政策を実行しようとしたが、反発した渋川義廉山名宗全畠山義就を頼り、大内政弘山名宗全と連携する一方、大内政弘の元に落ち延びていた斯波義敏伊勢貞親季瓊真蘂(きけい しんずい)の画策(武衛騒動)で寛正6年(1466年)30歳に上洛して義政と対面、義政は翌文正元年(1466年)に渋川義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じ斯波義敏を家督に据え越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与えた河野通春を援助して幕府から追討命令を受けていた大内政弘も赦免したが、これは大内氏と斯波氏武衛家)の引き入れを図ったとされる。
 だが、武衛騒動(将軍家家宰の伊勢貞親は義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏<武衛家>のお家騒動に介入し、斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた)をきっかけに発生した文正の政変によって守護大名達の圧迫を受けた伊勢貞親・季瓊真蘂・斯波義敏らは逃亡義政側近層は解体に追い込まれ、手足となる家臣を喪失した義政は完全に政治への意欲を失っていった
 畠山義就山名宗全の呼び出しで上洛、応仁元年(1467年)31歳に義政に家督復帰を許され、反発した畠山政長と合戦に及んで遂に応仁の乱が起こる。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。
 義政は当初は中立を貫き停戦命令を出し東軍の細川勝元に将軍旗を与え西軍の山名宗全追討を命令足利義視が西軍に逃げ込んだこともあり、東軍寄りの態度を明確にした。また、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、文明3年(1471年)35歳越前守護職を与える書状を送っている。文明5年(1473年)37歳、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は将軍職を子の足利義尚へ譲って正式に隠居した

隠居後の文明8年(1476年)40歳花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、日野富子と足利義尚が小川殿へ移ると、義政は富子の居所を造営する。
 文明9年(1477年)41歳応仁の乱は終わるが、足利義尚とはこの頃から意見の食い違いが起こり日野富子とも仲が悪くなって行く。当時は室町殿足利義尚)に対し東山殿足利義政と呼ばれ政治の決定機関が二つに分裂していたようである。そのためか以後は更に文化的な活動に拍車がかかった。
 文明13年(1481年)45歳日野富子から逃れるように長谷の山荘に移り翌年から東山山荘の建築を本格化させるが、諸大名からは石の献上はあっても費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある山城国の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。
 文明14年(1482年)46歳には東山山荘東山殿の造営を初め、祖父義満が建てた金閣をベースにした銀閣を建てた。また同年には、足利成氏と和睦し、享徳の乱を終結とした。文明17年(1485年)49歳に足利義尚の側近奉公衆と足利義政の側近奉行衆が武力衝突する事件が起こるなど、足利義政と足利義尚の対立は激化する。このため、足利義政は剃髪して出家し事実上政務から離れることを決めた

嫡男の足利義尚(改め義煕)延徳元年(1489年)53歳六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが日野富子が足利義政の復帰に反対し更に足利義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃の土岐成頼の下に亡命していた足利義視と和睦し、甥(義視の嫡男)の義材(足利義稙を自らの養子に迎えることで第10代将軍に指名して後事を託した
 延徳2年(1490年)54歳銀閣の完成を待たずして死去

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幕府の財政難土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

足利義政、{東山文化}の創造のみならず究極的に{日本人の美意識の独自な性格を形成するに当たって重要な役割を果たした

義政が好んだ芸術茶の湯;水墨画;能楽)}は、{【燻(いぶ)し銀】のように【控えめな気品】を備えていた}。

少年期の義政に最も影響を与えた人物は、{乳母の今(いま)参局(まいりのつぼね)(〜1459;名門大舘氏出身;気性が激しい)}だった。

義政の教育主として伊勢貞親(1417〜1473)}が行なった

義政(1436〜1490)}日野富子(1440〜1496)}と結婚した

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2014年07月18日

雪舟

雪舟(1420〜1506):画聖禅僧

2014年07月18日

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1420年備中の国(岡山県)の西の方の三須村の赤浜岡山県総社市で生まれたと云われています。家の名は{小田}と云いましたが、10歳未満の頃に{井山の宝福寺に預けられました

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雪舟(1420〜1506)}は、小さい頃から絵を描くことがとても上手でした}、そして{天章周文}という{大変素晴らしい絵の先生}がいるという{京都の相国寺(しょうこくじ)】}で、{春林周藤禅師の弟子にして頂き、{(とう)(よう)}という名前を貰いました。

臨済宗相国寺.jpg

{雪舟}には、早くから{天章周文の弟子}になっていた{室町幕府に仕えていた士の【小栗宗湛(おぐりそうたん)】}というまたとない{競争相手(ライバル)}がありました。

{天章周文}も{春林周藤禅師}も亡くなり、{相国寺}も{季瓊(きけい)禅師}が切り回すようになって{将軍義政の政治相談相手}となったこともあり、1454年34歳頃に{大内教弘からの招きを受け入れに出ることにし、周防(すおう)(山口県の城下へたどり着き、周防の町外れの雲谷という所に小さな庵雲谷(うんこく)(あん))}を周防の殿様に作ってもらって、そこに住むことになり、そこへは日本中からを教えてもらう人が集まって来るようになりました。

雲谷庵(復元).jpg

そしてその後{建仁寺の清(しょう)(けい)}に従って{大内家の使いの僧}として{雪舟}も応仁元年(1467年)47歳遣明船で中国)}へ行くことになりました。そして{中国の寧波(にんぼう)}という港の沖に着きました。そして{寧波(にんぼう)}に上陸すると{桂菴(けいあん)}と共に{寧波(にんぼう)}の東の大白山の麓にある{天童山(てんどうざん)景徳禅寺}をさっそく訪ねました。{五山の第一}と云われるだけあって{天童山(てんどうざん)景徳禅寺}は{美しい山や川}に囲まれた{大きな寺}で{中国中から大勢の僧侶が修行に集まっていました}。そして{雪舟}は{天童山(てんどうざん)景徳禅寺}で一所懸命に修行を続けて、わずかの間に(し)明天童(めいてんどう)第一座(だいいちざ)}という一番優れた地位を貰いました

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{1年ほど遅れて【清(しょう)啓(けい)和尚】達の舟が着いた}ので、{日本からの一行}は揃って{中国の都北京へ向かうことになりました。しばらくすると{【張有声】と【李在】}という北京の優れた二人の画家と親しく付き合うようになり、色々と教えられました。また、北京では礼部院に壁画を描いた

そして寧波(にんぼう)を出てから九州の博多へ戻って来たのは文明元年(1469年)49歳日本を立ってから足掛け3年の旅でした。

{周防の城下}に戻って来た{雪舟}は{殿様の大内政弘{【役目を無事に終了したことを報告しました}。

{京都}へ行きたいと願った{雪舟}であったが{応仁の乱}で都は荒れ果てていて諦め、中国への旅で仲が良くなった{桂菴(けいあん)禅師(豊後の国<大分県>の万寿寺)}を訪ねて九州への旅}をすることにした。そして豊後の国の殿様の大友親繁の許可を得て桂菴(けいあん)禅師雪舟のためにを小高い丘の上に作ってくれ、{雪舟}も{(てん)(かい)図画楼(とがろう)}と名付けてここが大変気に入り、その後10年間ほどここに住み付きました

その後{大友親繁が亡くなり、その子の{政親}の時になると戦が起こりたいへん騒がしくなって来たため、{周防の雲谷帰ろうと思うようになりました。弟子にした{秋月}を連れて{桂菴(けいあん)}に別れを惜しみながら{豊後を後にしました。文明10年(59歳)には益田七尾城主益田兼堯の招きにより石見の国吉田村島根県益田市を訪問し崇観寺医光寺の五代住職となり、「益田兼堯(かねたか)」;「山寺図」;「花鳥図屏風を描き萬福寺(すう)観寺(かんじ)(医光寺の両寺に山水庭を築いたそして京都を目指しました。{京都}に着くと、京都五山の優れた僧侶の一人で衣笠山の麓に住んでいる村菴(そんあん)}を訪ねました

それからしばらく{村菴(そんあん)}の庵で世話になった翌年には、{東への旅}を続け、{相国寺で仲の良かった万里集九に会うために美濃の国の正法寺(しょうぶじ)}を訪れました。それから駿河の国の清見寺(せいけんじ)}へ行きました、そこに半年以上滞在した後には鎌倉の建長寺}に向かいました。更に{相国寺にいた頃仲の良かった玉峰禅師がいる羽前(うぜん)(山形県にある(す)禅寺(ぜんじ)}までやって来ました。
 次には北陸道を西へ旅をして(大阪府堺市)}という町に着きました。そして再び周防の城下の雲谷へ戻って来ました。しかし若い殿様大内義興の不興を買ったため隣の石見の国吉田村島根県益田市を再訪し、{石見の国吉田村(島根県益田市)の東光寺大喜庵)}で86歳の生涯を終えました

現存する作品の内6点が国宝}に指定されており、日本の絵画史において別格の高い評価を受けていると云える。

山水長巻.jpg
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2014年07月04日

横山大観

横山大観(1868〜1958):日本画家

2014年07月04日

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常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市出身近代日本画壇の巨匠であり、今日{朦朧体(もうろうたい)}と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。本名横山秀麿(よこやま ひでまろ)。

1868年(明治元年)、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中及び私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。1888年(明治21年)20歳、母方の縁戚である横山家の養子となる。東京美術学校を受験することに決めると、急遽結城正明、狩野芳崖等に教えを受ける(その期間は2〜3か月程度だったと云われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わって来たと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請、見事に東京美術学校へと合格した。1889年(明治22年)21歳東京美術学校に第1期生として入学岡倉天心橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草下村観山西郷孤月等がいる。
 美術学校卒業後、京都に移り仏画の研究を始め同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となる。またこの頃より雅号大観を使い始めるようになる。1896年(明治29年)28歳同職を辞すと母校東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後30歳校長天心への排斥運動が起こり岡倉を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年日本美術院創設に参加する
 美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた{没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる{朦朧体}という呼称も、当初は「勢いに欠ける曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡りカルカッタニューヨークボストンで相次いで展覧会を開き高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡りロンドンベルリンパリでも展覧会を開きここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価され始め、1907年(明治40年)39歳にはこの年より始まった文部省美術展覧会(文展の審査員を務め、1913年(大正2年)45歳には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った
 以後、日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)66歳朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)67歳には帝国美術院会員となり、1937年(昭和12年)69歳にはこの年制定された第1回文化勲章の受章者となった。同年帝国芸術院会員
 戦後の1951年(昭和26年)83歳日本美術院会員を辞す。同年文化功労者。1958年(昭和33年)90歳東京都台東区にある自宅にて死去。永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ勲一等旭日大綬章を贈られた。脳は、現在もアルコール漬けにされた状態で東京大学医学部に保管されている。


 

以下に、{横山大観の言葉をご紹介します。


 

初めから古画を写すと駄目だぞ、魂の抜けた絵が出来てしまうから、3〜4日遊ぶつもりでとにらめっこしよう



私には前途に{大きな希望}があり、心の中には{芸術に対する燃えるような熱情}があり、この2つのものの力に押されて、{【世の非難】も【生活の艱苦】をも堪え忍ぶことが出来ました}。



生活の安定の無い所}に{美術は無い}。



どこまでも自己の信ずるままに、絵画本来の約束に従って描くべきものです。



アメリカからロンドン、そしてフランス、ドイツ、イタリアと前後2年近くに渡る{欧米絵行脚}はそれからの私の生涯に{大きな教訓}となりました、{欧米の各美術館で名画の多くに接し得たこと}は、{後々の私の大きな精神的な糧となった}と信じています。



{空気とか光線とかの表現}に{空(から)刷毛}を使用して一つの味わいを出すことに成功しましたが、当時の鑑賞界にはこの{新奇な試み}は容れられず、{朦朧派なる罵倒嘲笑を受け、{画も売れなかった}。



しかしこれに屈せず、{世間のとかくの評判等は眼中に置かないで}、{自己の信ずる道を進んだのです}、それが今から考えると良かったと云えます。



私の家と菱田春草君の家の生活は極度に貧しく、その日その日のものにも事欠く始末で、あの魚の安い五浦にいて、その魚すら買うことが出来ませんでした、私と菱田君は餓死寸前まで来ていました。



長い人生の間には幾多苦難に見舞われることがありますが、そういう時にその苦難に負けては駄目なので、あくまで所信に邁進する}ことが大事なことだろうと思います。



人間は思わぬところで、{昔勉強したこと}が{役立ちます}から不思議なものです。



作家どこまでも創造して行くことが貴い}ので、{人の真似}はいけません、{自分の今日の作品}と{明日の作品}とは変わっていて良いのです、またその{変化の無い人は駄目です、{唯一つ【吾は日本人である】という【誇り】をどこまでも堅持してもらいたい}。



{【弟子】をこしらえる}ならば、{【世間の人間】を【弟子】にする}くらいの{気概}を持つべきだと思います



{絵描き}は{特に眼が大事です}、{眼も良いし、身体も良い、ですから仕事はいくらしても一向に疲れません}、ただ{仕事をしていると足が痛む(運動不足;座業のせい)ので、2時間も描くと1時間くらい寝ています}。

大観画像1.jpg横山大観 富士.png大観画像3.jpg大観画像4.jpg大観画像5.jpg横山大観 冬之夕.png大観画像2.jpg



 
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