2014年08月30日

片岡鶴太郎

片岡鶴太郎(1954〜)本名:荻野繁雄;俳優・画家;絵を描く時のみ左利き

2014年08月30日

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10歳の時、動物の物真似でフジテレビの素人参加番組『しろうと寄席』にテレビ出演。その時のADが後に『笑っていいとも!』のプロデューサーとなる横澤彪だった。早くから芸人を志し、高校進学に際しては中学3年時の初めには成績が下から2、3番だったが、夏休みの1か月間で小学校6年生の教科書からやり直し上位10番に入り、東京都立竹台高等学校に入学。演劇部に所属し、3年次には部長を務めた

高校卒業後、俳優を目指し、清川虹子の自宅へ何のあてもないままいきなり訪問し弟子入りを志願したが清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、最後には警察を呼ぶと言われ断念。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、1973年19歳声帯模写の片岡鶴八に弟子入りし、声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場等の舞台に出演するようになる。
  師匠である片岡鶴八は、「声帯は人によって違うから、君に僕の芸はそのまま教えられない」と芸を教えてくれなかったが、そば屋に連れて行ってもらってそばの食べ方の手ほどきを受けたり、「芸人として売れるまで、そば屋では盛りそばしか食べてはいけない」等、芸人としてのを教えてもらったという。鶴八師匠は、盛りそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「君も早く売れる芸人になりなさい」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は師匠の懐の深さを知り、「いつかは師匠と一緒に天丼を食べたい!」と決意するが、売れ出した頃に師匠は亡くなってしまい、その願いは叶うことがなかった。
  そんな売れていない頃、電話帳で見つけた女性宅へ郷ひろみの物まねでいたずら電話をし、「もしもし、僕、ひろみ」と女性へ本物の郷ひろみと思わせた頃、「ガハハ!騙された!」とファンを逆なでするようないたずらをよくやっていたという。
  1976年22歳頃大阪で隼ジュン(後の隼ブラザーズ)の元で修行、{岡鶴太郎(デビュー当初は「片」がない)}の芸名でトランポリンの地方興行を行う。このままで終わってしまうことに不安を感じ2年ほどで一座を脱退。知人の紹介で松山の道後温泉で劇団に所属して司会やものまねの仕事に就き修行を重ねる。温泉旅館での宿泊客の老人には持ち芸である小森のおばちゃまの真似はウケなかったが、鶴太郎の才能を理解してくれた座長の娘と半年後に上京結婚した。夫人との間には3人の子供を儲けている

24歳で実質的なテレビデビューとなるフジテレビ系『お笑い大集合』に出演、ここで後に、漫才ブームの仕掛け人の一人となった横澤彪と再会。{片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出するが漫才ブームには乗れず。その後お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』で披露した近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、九官鳥の「キューちゃん」や浦辺粂子、たこ八郎等の真似で人気を博した。
  当時は小太りの体型で、熱いおでんを無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す等、被虐的なキャラクターだった。そのため、鶴太郎こそがいわゆる{リアクション芸人の元祖だとの声もある(上述の芸は、現在事務所の後輩であるダチョウ倶楽部の持ちネタとして有名である)。
  今でこそその芸風は払拭され全く見られないが、『オールナイトフジ』ではおまるの中にかりんとうを入れて示す等の下ネタを披露したり、同番組内の<鶴太郎劇団>という寸劇コーナーでは頻繁に女装して、男装した共演の女子大生と絡みのシーンを演じる、劇の最後のオチで全裸を女子大生に見せ付けるといった下品なキャラクターであった。{アブラギッシュな男No1}という不名誉な称号を得たのもこの頃である(井手らっきょは、鶴太郎の芸風に影響を受け全裸ネタを使うようになったと語っている)。
  また、オールナイトフジで萩原健一と『愚か者よ』を歌った際には、萩原にズボンを脱がされてパンツとワイシャツだけの姿になってしまった。
  お茶の間に定着して以降、物真似ではとりわけ老けキャラの開拓を得意とし(小森のおばちゃま・浦辺粂子・坂上二郎等多数)、後年にも、宮路社長や横山弁護士ら、話題の人物を好んで演じてみせた。
  持ち前の器用さからバラエティ番組の司会やトークも数多くこなし、1986年32歳には鶴太郎の造語プッツン」(喩えとして脳の血管や堪忍袋の緒、あるいは緊張の糸が切れて突飛な行動を取ること。またはその人物)が新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞に選ばれた

『笑っていいとも!』に出演の際には、タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行う。『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』に登場した九官鳥がモデルとなっている。
  1980年代に女性タレントとの浮気が報道された際、ビートたけしが「鶴太郎の野郎、この前カミさんがマンションに来てしょーがないから義理でやってたら隣の住人に『うるさいなー!毎日毎日!』と言われちゃった」と語り、当時の鶴太郎の人気のほどを伺わせた。
    1988年34歳には、「今までの自分が嫌になり、それを否定したかったという理由からプロボクサーテストを受験。当時ボクシングのプロテストの受験資格年齢は29歳までであったため、鶴太郎には本来受験資格がなかったが、日本ボクシングコミッション(JBC)に懸命に頼み込み、「合格しても試合には出場出来ない」という条件で特別に受験が叶い合格した。受験にあたって前年から減量を始め、それまでの<小太り>から急激にシャープな体型に変わった。
  プロテスト後は鬼塚勝也や畑山隆則のマネージャーとして、タイトルマッチではセコンドを務める等、両人の世界王座奪取に大きく貢献。後に芸能活動において鬼塚や畑山等の元プロボクサーが鶴太郎と同じ太田プロに所属する切っ掛けとなった。1988年34歳から1994年40歳に放送された『季節はずれの海岸物語』では主役の高村圭介を演じると同時に、鬼塚勝也との共演も果たした。1990年36歳にTBS『月曜ドラマスペシャル』で放送された『昭和のチャンプ〜たこ八郎物語〜』では、かつて『オレたちひょうきん族』で物まねをしたたこ八郎を、彼の前半生でのボクサーとしての視点を主体に演じている
  1988年34歳映画『異人たちとの夏』の監督・大林宣彦に江戸弁を気に入られ主人公の父親役に抜擢されると評判を呼び、多くの映画賞を受賞、活動の軸足を俳優に移す。そして1991年37歳NHK大河ドラマ『太平記』の北条高時役を演じたことで役者としての決定的評価を得ることになる。後年、大河ドラマでは『元禄繚乱』(1999年)で英一蝶役を演じた。『軍師官兵衛』(2014年)では小寺政職役を演じたが、『仁義なき戦い』における金子信雄のイメージというオファーがあったことから、芸人色の濃い演技となっている。
  1990年代には横溝正史原作一連の推理ドラマに、主人公の探偵・金田一耕助役で毎年出演(計9本)し、石坂浩二や古谷一行らと並んで金田一役の代表的俳優の一角を占めることになった。以降も『家栽の人』では植物を愛し人間の本質を見抜く暖かみのある桑田判事役を、『ララバイ刑事』ではどこか虚無的な雰囲気のある刑事を演じるなど、コンスタントに活躍を見せている。
  近年は2時間サスペンスドラマの主役として活躍する機会が多く、特にテレビ朝日系列の土曜ワイド劇場『終着駅シリーズ』での牛尾正直は当たり役の一つである。
  飲み友達である志村けんの著書によると、鶴太郎は酒の席で「自分は物まねも中途半端だし、お笑いではたけしさんやさんまさんにはかなわない、コントには志村さんがいる、だから俳優に行くしかない」と語ったとされている。俳優への転身は自身の評価にも繋がっており、映画『男はつらいよ』の二代目寅さん役最有力候補とされていたこともある(渥美清の死去後すぐ報道された)。

タモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年35歳ドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸等美術方面へ傾倒して行く。岡本太郎とバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で共演したことから知り合い、岡本太郎によってその才能を評価され自信を持ったとされる
  群馬県吾妻郡草津町、福島県福島市に{美術館}、石川県加賀市、佐賀県伊万里市に{工藝館}がある。
  右利きだが絵は左手で描いている
  2003年49歳奈良県當麻寺中之坊に天井画を揮毫し奉納。2004年50歳秋より、文化勲章受章者や日本芸術院会員ら一流画家の作品にまじって、写仏道場の格天井に飾られている。作品名は『天井より海を眺め』
  2007年53歳には、絵画の視点で書道にも挑戦し、第24回産経国際書展に応募作品「骨」が話題を呼び、総数7575点の中から産経新聞社賞を受賞した
  また、女優でアイドルグループ「キャンディーズ」の元メンバーだった田中好子に絵画を教えていた。



以下に、{片岡鶴太郎氏の言葉をご紹介します。


ご縁}とは、{人間の力の及ばない何かによって、既に用意されているものかもしれない}、そうであるならば{【ご縁】に身を委ね、【ご縁】を大切にしたいと思っている}。



腹の主(魂の声)}に逆らわず



{【決断を迫られるような大事な場面】や【人生の分岐点】}に立った時、{僕には必ず【腹の主】の大きな声が聞こえる}。



{僕にとって【絵を描く】ということ}は、{人間としての根っこのところから出て来る【表現をしたい】という【想い】なのである}。



{絵を描く}行為を通して、{【魂が求めているもの】に応える作業}をしているのである、{【自分の魂】を表現したい}のだから{【目の前にあるもの】を【目が見た通りに描く訳ではない】}。



{自分の心の中に浮かんで来る色合い(音色;ポエジー)}を描こうとするのである。



僕の食事の量はいつも{腹七分目}、{腹七分目}の状態で{感性を研ぎ澄まして置きたい、そうしなければ{受信機}が{誤作動}するような気がするのだ。



絵}と{書}は全く{対等}にあるもので、{絵}と{書}は{ハーモニー}を奏でている。



{僕の心から湧き出て来る【音色】が変わる}と、{【絵】は自然に変わって来る}。



真似る}ことは、{【学ぶ】ことの第一歩}だ。



}は{どんなところでも生きられる知恵を持っている}、並外れた{【順応性】と【柔軟性】}を持っている、ところが一旦{まな板の上に載せられる}と{あれだけピチピチと動く魚なのに、目を塞いでピタッと動きを止める、その【潔さ】にただただ敬服するばかりだ}。



鯉】の{【貪欲に生きる姿】と【潔さ】}、{その【魂の素晴らしさ】はもう【人間の比ではない】}。



鯉}のようになりたい、{鯉}のように生きられたいいなあと思っている



稲(いね)}は、{【命の元の根】、【いのちのね】}が{【いね】の語源}なのだそうだ



何の迷いも無く、何の矛盾も感じず、【事に仕えている眼】}、{【事に仕える】とは【こういう姿勢】であるべきなのだ}。



常に【感覚】を研ぎ澄ましている}から、{【未知なもの】に【敏感】で、違和感無く臆すること無くそれに向かうことが出来る}。



食べもの}というのは、{【その土地の文化や生活の匂い】が現れるもの}だと思う。



出会い}は{神様(大いなるもの)からのプレゼント}だと思っている。



{【やりたい】と【想う】}ことが{引き寄せる力}になり、{確実に【念】が通じて【必要な<人やもの>に会わせてくれる】}。



{悪い出会い}も{自分を豊かにするチャンス}であり、{人生の面白さ}というものだろう。



{【今】という時}を{大切にしたい}!




{【年齢】と【気持ちの向き方】}によって、{【入って来るもの】が違って来る}。



{【ピカソの晩年の顔】が好い}、{自分の心に正直で嘘偽りの無い【顔】}だ。



竹に雀.jpg竹ニ椿.jpgやんま.jpg

伊勢海老.jpg遊魚.jpg
渡りがに.jpgさんま.jpg

すいか.jpg土佐鰹.jpg
夜桜.jpgゴリラ.jpg






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2014年08月01日

セルゲイ・ディアギレフ


セルゲイ・ディアギレフ(1872〜1929)Sergei Diaghilev:バレエ・リュス<ロシア・バレエ団>の創設者天才的興行師

2014年08月01日

セルゲイ・ディアギレフ.jpg

ウラル山脈に近いロシアのペルミにおいて比較的裕福な地方貴族の家庭に生まれた。父の再婚に伴ってペテルブルクで幼少時代を過ごし10歳の時にペルミに戻る
 1890年18歳ペテルブルク大学に入学し法科に在籍するが、本業である法律の講義にはほとんど出席せず芸術家を志して声楽作曲を学ぶ一方マリインスキー劇場などで行われる演奏会に頻繁に通った。また、従弟ディーマ・フィロソーフォフを通じて、後に『芸術世界』で活動を共にするアレクサンドル・ブノワヴァレンティン・ヌーヴェリレオン・バクスト(当時はレフ・ローゼンベルク)らと知り合い芸術談義に花を咲かせた。そして1892年(20歳)には{ディアギレフ}は既に熱狂的なワーグナー教信者だった
 作曲の師であるリムスキー=コルサコフから作曲家としての才能の欠如を指摘され自ら芸術家となることは諦めた
 {【挫折した野心】;【女性と上手く付き合えない】;【従弟ディーマ・フィロソーフォフへの熱中ぶり】}、{ディアギレフの人生を複雑なものにしていた
 1895年(23歳)春、{ディアギレフ}は突然美術に熱中し始める
 1896年(24歳)、{ディアギレフ}は{時事株式新聞美術批評を書き始める
 1896年(24歳)、{イギリス・ドイツ水彩画展(ロシア以外の美術を紹介した展覧会としては、ロシア史上最も重要で最も芸術的に豊かな展覧会の一つ)}ディアギレフたった一人で作り上げた
 1898年(26歳)、{ディアギレフ}は雑誌『芸術世界』ミール・イスクーストヴァ)発行の実現に向けて、{テニシェワ公爵夫人鉄道王サッヴァ・マーモントフスポンサーになってもらったが2年目には2人ともスポンサーから手を引いてしまった、そして新たにロシア皇帝ニコライ二世助成金を出してくれることとなった
 大学卒業後西欧各地を旅行して絵画を買い漁り、1897年25歳以降6回にわたって自前の展覧会を開催する。1898年26歳に行われた2回目の展覧会では皇帝一家をオープニングセレモニーに招待し、皇帝ニコライ2世の伯父ヴラジーミル・アレクサンドロヴィッチ大公との知己を得た。同年にはブノワバクストらと雑誌『芸術世界』ミール・イスクーストヴァを刊行。1904年の廃刊まで、ビアズレーモネを初めとする西欧の新しい美術や、ロシアの前衛画家の作品、更に歌川広重葛飾北斎にいたる幅広い芸術を紹介し続けた。
 これらの活動のロシアにおける総決算として、1905年33歳サンクトペテルブルクのタヴリーダ宮殿を会場としてロシア歴史肖像画展を開催する。帝室のコレクションや全国各地から集めた約3,000点が展示され、バクストが室内装飾を担当した。当時のロシアは日露戦争の敗色が濃厚となり、1月には{血の日曜日事件}が起こるなど極めて不安定な情勢にあったが、ニコライ2世を初めとして多くの人々がつめかける盛況ぶりであった。
 これより先、ディアギレフは『芸術世界』への寄稿者で、帝室マリインスキー劇場の支配人ヴォルコフスキー公爵の推薦により1900年28歳に{帝室劇場運営特任要員(政府職員)}に任命されていたが、組織内の軋轢が原因で1901年29歳に罪人同様の扱いで追放処分となった
 1904年(32歳)にアメリカのダンサーイザドラ・ダンカンがペテルブルクを訪れロシアの舞踊界に決定的な影響を与えた
 1906年34歳パリのプチ・パレにてヴラジーミル大公を組織委員長とするロシア人画家の大々的な展覧会を開催し、この成功により、フランス文化界や社交界と交流するきっかけを掴んだ

パリでの展覧会の成功により、パリの興行師ガブリエル・アストゥリュク、及び彼が創設したパリ音楽協会会長を務め、社交界に影響力があったグレフュール伯爵夫人に接近し、その協力・後援の元、パリで大規模なロシア音楽の演奏会を企画した。ディアギレフはかつての作曲の師であるリムスキー=コルサコフの他、当時のロシアを代表する作曲家や演奏家に交渉して出演許可をとりつけた。その一方で、作曲家としては評価していなかったが、政府の要職にあったタネーエフを巻き込むなど、政治上のしたたかな配慮も欠かさなかった。
 1907年(35歳)5月に行われた{パリ・オペラ座における五夜連続の歴史的ロシア音楽コンサート}では、ラフマニノフ自身のピアノによる『ピアノ協奏曲第2番』を初めとして、リムスキー=コルサコフスクリャービングラズノフらが自作を演奏し、アルトゥール・ニキシュ指揮によるチャイコフスキーの『交響曲第2番』や幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』等が披露され、大成功を収めた。特にフョードル・シャリアピンによるオペラ『イーゴリ公』の抜粋や『ボリス・ゴドゥノフ』のアリアは聴衆を魅了した
 この成功に味を占めたディアギレフは翌1908年36歳シャリアピンを主役に据えてモデスト・ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』全幕の上演をパリ・オペラ座で実現させた。その準備は困難を極め、2,300人の招待客の前で行われた公開リハーサルは、大道具が使えず、普段着のままで行われ、ディアギレフ、ブノワ、バクストらが臨時の舞台係をつとめた。綱渡りのような状態であったにも関わらず、本番の舞台は大成功でパリの聴衆はシャリアピンの歌と演技力に感嘆した
 1908年秋(36歳)のある時期から、{ワスラフ・ニジンスキー{ディアギレフ}は親密となり、それから5年間に渡り情熱的な愛情関係を続けた
 更に翌1909年37歳、帝室マリインスキー劇場の夏季休暇を狙って劇場専属のバレリーナや大道具、小道具、スタッフを借り、オペラとバレエを中心としたロシア音楽演奏会第3弾を企画するが、間際になって最大の後援者ヴラジーミル大公が死去、ディアギレフをよく思わない人々の讒言によって、ロシア帝室からの資金援助、帝室劇場の道具貸し出し、ロシアでのリハーサル会場の使用許可すべてが取り消された。幸いにもバレリーナとスタッフの貸し出しは許可されたため、ディアギレフとアストゥリュクは奔走して資金をかき集め、リハーサル会場を確保し、プログラムをバレエ中心にしたものに変更した。
 こうして、1909年(37歳)5月19日、大改装されたシャトレ座で行われたセゾン・リュスロシア・シーズン)}では、帝室劇場のレパートリーに手を加えた『アルミードの館』『イーゴリ公』より{韃靼人の踊り}『レ・シルフィード』『クレオパトラ』等が披露され、{アンナ・パヴロワ}や{ワスラフ・ニジンスキー}、{タマーラ・カルサヴィナ}等、ロシアで最も優れた若手舞踊家の踊りや、{韃靼人の踊り}における勇壮な男性ダンサーの群舞は、19世紀後半からバレエが芸術ジャンルとしては凋落してしまっていたパリの観客に衝撃を与え、この夜の公演は{20世紀劇場史における伝説的な出来事}として語り継がれて来た。この公演はあくまでも臨時のバレエ団によるものであったが、事実上{バレエ・リュスの旗揚げと見なされる。
 『アルミードの館』の上演では、プリマ・バレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤの代役として輝かしい若いダンサー{アンナ・パヴロワ(1905年の学生運動の指導者の一人でもあった)}が自ら進んで名乗り出た。
 1909年(37歳)、『アルミードの館』開幕当初{アンナ・パヴロワ}がいなかったため、{ワスラフ・ニジンスキー}を巡る{広報活動}がぐんと増え、{ヴェストリス(18世紀フランスの伝説的ダンサー、オギュスト・ヴェストリス)の再来}と銘打たれた。
 {ディアギレフ主催のパーティ}で{イザドラ・ダンカン}は{ワスラフ・ニジンスキー}の隣に座り、{ニジンスキーさん、是非とも私達は結婚しなくては、どんなに素晴らしい子供達が生まれるか考えてもごらんなさい、神童が生まれますわ、ダンカンとニジンスキーのように踊る天才がね}と言ったが、{ワスラフ・ニジンスキー}は{自分の子供にはダンカンのように踊って欲しくない、それにそもそも自分はまだ結婚するには若過ぎる}と答えた。
 バレエ公演は芸術的に大成功であったが7万6,000フランの借金を抱えたディアギレフは、大道具や私物にいたるまで差し押さえられて実質的に破産状態となった。このような状態にありながらも、ディアギレフは将来の公演のためにラヴェルに『ダフニスとクロエ』(<バレエ・リュスが上演したすべての作品の中で最高傑作の一つ)、ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲を依頼し、更にロンドンへ渡り公演会場探しを行った
 翌1910年38歳、再び結成されたディアギレフのバレエ団は、オペラ座において新作『火の鳥』の他、バレエ用に改編したリムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』等を上演しまたしても成功を収めた。この公演では踊りもさることながら、ブノワバクストらによる舞台美術も注目を浴びた。『芸術世界』以来の同士であるバクスト、ブノワは{バレエ・リュス}においても芸術監督として協力した。彼らが協同して、ショウ的要素のあるバレエというわりあい複雑な形態を発展させたのは、貴族にだけではなく一般大衆にもアピールするようにとの意図からだった。ロシア・バレエ団のエキゾチックな魅力は、フォーヴィスムの画家や、勃興しつつあったアール・デコ様式(たとえばイラストレーターのジョルジュ・バルビエら)に影響を与えた。

1911年〜1912年には、{牧神の午後}{青神ジャン・コクトーが台本を書いた)}といった{ミハイル・フォーキン振付による作品の稽古をしていた

1912年(40歳)5月13日、{パリ公演}は{青神}と{タマール}で幕を開けた。

牧神の午後}は1912年(40歳)5月29日に初演される

牧神の午後初演の2週間後、{お抱え振付家だったミハイル・フォーキンが一座を去った

1913年(41歳)5月28日{春の祭典初演、6月5日には{ホヴァンシチナ初演

ピカソ}は、{バレエ・リュス}に数年前に入団したダンサー{オリガ・ホフロワ}に恋していたため{ディアギレフ}の計画に深く関わっていた。

その頃、オランダの田舎町から{グリーチェ・ツエレ(マタ・ハリ)}という風変わりな女性がやって来て、{イダ・ルビンシュタイン}が辞めた後釜のダンサーとなった。
 2度のバレエ公演を成功させたディアギレフは、1911年39歳に借り物ではない、常設のバレエ団バレエ・リュスロシア・バレエ団)}を結成した。{バレエ・リュス}でのディアギレフは{天才を見つける天才}ぶりを発揮して多くの芸術家を動員し、{総合芸術としてのバレエ}という、これまでになかった芸術スタイルを確立した。
 ミハイル・フォーキンワスラフ・ニジンスキーレオニード・マシーンブロニスラヴァ・ニジンスカジョージ・バランシンらが独創的な振付けを行い、『火の鳥』以後、『ペトルーシュカ』(1911年39歳)、『春の祭典』(1913年41歳)、『プルチネルラ』(1920年48歳)、『結婚』(1923年51歳)等を作曲したストラヴィンスキーの他、ラヴェル『ダフニスとクロエ』、1912年40歳)、ドビュッシー『遊戯』、1913年41歳)、プロコフィエフ『道化師』、1920年48歳『鋼鉄の歩み』、1925年53歳)、サティ『パラード』、1917年45歳)、 レスピーギ『風変わりな店』、1918年46歳)、 プーランク『牝鹿』、1923年51歳)等、多くの作曲家がディアギレフの委嘱に応じてバレエ音楽を作曲し、ピカソマティスローランサンミロ等の画家が舞台美術を手がけた。また、ミシア・セールを初めとするパリ社交界のパトロン達や、ココ・シャネルは{バレエ・リュスの活動を金銭的に援助した
 {バレエ・リュス}では新曲ばかりでなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』『眠れる森の美女』や、アダンの『ジゼル』等も上演された。また、ディアギレフはオペラ上演にも関わり続け、リムスキー=コルサコフ晩年の一連の歌劇 『プスコフの娘』『五月の夜』『金鶏』の他、ストラヴィンスキーの新作『マヴラ』等をバレエと並行して取り上げた。
 1920年代からは新興のスウェーデン・バレエ団や、かつてバレエ・リュスに協力したこともあるイダ・ルビンシュタインの一座が{バレエ・リュス}の地位を脅かし、後期の{バレエ・リュス}は「知的に過ぎる」「余りに近代的である」と見なされ、その公演は無条件で成功というわけには行かなくなったが、それでも最後まで新しいスタイルによるバレエを生み出し続けた。
 ディアギレフは1929年57歳のシーズンが終わった7月から8月にかけて、若き作曲家イーゴリ・マルケヴィチを連れてドイツやスイスを旅するが、その後、持病の糖尿病が悪化して8月19日にヴェネツィアで客死しサン・ミケーレ島の近辺に埋葬された、世界恐慌が起こる二ヶ月前のことであった。

{ディアギレフ}は{生涯無一文}で生き、{無一文}で死んだ。{ミシア・セールココ・シャネルディアギレフ葬式の費用を出した

バレエ・リュス}は、ディアギレフの死によって解散したが、その団員からはバランシンらのように、ロシアのクラシック・バレエの伝統を米国や英国に移植した者や、バレエ教師セルジュ・リファールのように、パリ・オペラ座で復活を遂げた者を輩出した。

ディアギレフは一生に渡って同性愛者であり続け、性愛の対象を一流の芸術に触れさせて教育するという習慣を持っていた。その相手として最も有名なのは{ワスラフ・ニジンスキー}であり、その後の{レオニード・マシーン}、{セルジュ・リファール}や、最晩年の秘書{ボリス・コフノ}も同性愛の対象であった。
 極度に細菌感染を恐れ、友人が病気になって見舞いに行った際も決して部屋に入ることはなく、馬の吐く息を避けるために屋根のない馬車に乗ることを避けた。また、迷信家でもあり、過去にパリの占い師から「水辺で死ぬ」と予言されたために船旅を恐れたが、結果的には{水の都}ヴェネツィアで死ぬこととなった。

ヴェネツィア}は{ディアギレフ}が{【心の窓】を開け放てる場所}であり、{【思索】や【白昼夢】}に耽ることが出来、{【現実的な心配事】を忘れて、【自分の創造性】を再発見出来た}。

{【ディアギレフ】にとって【ヴェネツィア】は【ヨーロッパ文化の偉大さ】を象徴していた}、{【ディアギレフ】は【ルネサンス芸術】を崇拝し、その時代の建築や音楽については百科事典的な知識を持っていた}。



 
以下に、{セルゲイ・ディアギレフの言葉をご紹介します。



{【具体的なもの】は何も無く、すべてが【静謐】で、概念がぼやけ、【死】が【霊感】や【生命力】と隣り合わせになっている場所}にこそ、{【人生】はあるのです}。



{私の人生の【夢と目的】}は、{【芸術の世界】で【創造的な仕事することです】}。



{【古臭くなった退屈な部分】を【削除する】}ことで、{【曲】は【より良くなるのです】}。



私は{真の【天職】}を見つけました、{芸術家のパトロンになる}ことです。



成功}こそはすべてを埋め合わせてくれ、すべてを償ってくれる


イザドラ・ダンカン}が我々の同志であることは否定しない、我々の掲げる松明に火を点けたのは彼女だ。


 

★参考サイト⇒参考ブログ1では本からの言葉の一部をご紹介しています



参考サイト2:こちらです。

参考サイト3:こちらです。


 



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2014年07月20日

足利義政


足利義政(1436〜1490):東山文化を築く

2014年07月20日

足利義政.jpg

母は日野重子であり、永享8年(1436年)に第6代将軍足利義教の3男として生まれる。嘉吉元年(1441年)、父が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された後、同母兄の足利義勝が7代将軍として継いだが、嘉吉3年(1443年)に義勝も早世したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て8歳将軍職に選出され元服を迎えた宝徳元年(1449年)13歳正式に第8代将軍として就任した

当初の義政祖父の3代将軍足利義満父の政策復活させようと試み鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏関東管領上杉氏との大規模な内紛享徳の乱に対しては足利成氏追討令を発して異母兄の堀越公方足利政知を派遣するなどして積極的な介入を行った。更に政所執事伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする将軍側近集団を基盤として守護大名の勢力に対抗して将軍の親裁権強化を図ろうとした。この時期の室町幕府を{義政専制体制にあったとする説も存在している。
 だが、{三魔}と呼ばれる{乳母の今参局御今)・烏丸資任有馬持家}や母重子と正室富子の実家の日野家有力な守護大名等が政治に介入して来て、将軍としての政治の主導権を握ることは困難を極めた。それを思い知らせる事件が何度か起きている。
 当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多く、義政は初めこれらの相続争いに積極的に介入したが、加賀守護であった富樫氏の内紛(加賀両流文安騒動)では管領細川勝元の反対を受けて義政の意のままに相続権を動かすことが出来なかった。宝徳3年(1451年)15歳にも尾張守護代であった織田郷広の復帰を図ったが尾張・越前・遠江守護である斯波義健や守護代甲斐常治の反対を受けて義政の意のままに動かすことは出来なかった。
 一方、享禄3年(1454年)18歳畠山氏のお家騒動が起こり、8月21日に山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して畠山持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。義政はこの問題で義就を支持、29日に政久を匿った細川勝元の被官を切腹させ、11月2日に山名宗全退治を命令、翌3日の山名宗全隠居で撤回、12月6日に山名宗全が但馬に下向した後義就が13日に上洛、義政と対面して家督相続を認められ、政久は没落した。
 義政の義就支持は、細川氏・山名氏に対抗するため、尾張守護代問題で今参局を介して畠山持国を抱き込んだからで、山名宗全の退治命令も畠山義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で山名宗全に討伐された赤松氏の復興を狙ったとされる。赤松則尚は11月3日に播磨に下向しているが、翌享徳4年(康正元年、1455年)19歳山名宗全に討たれている。同年に御教書を発給、この頃から親政を始めたとされる。

享徳3年1454年18歳享徳の乱が発生、関東管領上杉房顕・駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とし、足利成氏は古河に逃れて古河公方を名乗った。関東は膠着状態となり、長禄2年(1458年)22歳に異母兄の足利政知を鎌倉公方として下向させたが、足利政知は鎌倉へ入れず堀越に留まり堀越公方となる。また、畠山義就が上意と称して度々大和に軍事介入したため次第に疎遠となり、長禄3年(1459年)23歳畠山政久が赦免され、畠山政久が死去した後は弟の畠山政長細川勝元に擁立され山名宗全も復帰したため、長禄4年(1460年)24歳に家督を畠山義就から畠山政長に交代させた。畠山義就は抵抗したが、寛正3年(1462年)26歳吉野へ逃れた
 長禄2年22歳不知行地還付政策で寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図ったが、それが原因の1つとなり甲斐常治斯波義敏越前で長禄合戦を引き起こした。斯波義敏享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった甲斐常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い斯波義敏の子松王丸(斯波義寛へ当主を交代させた長禄合戦甲斐常治が勝利したが、直後に甲斐常治も没し関東派遣は見送られた。
 赤松氏は赤松則尚山名宗全に討たれた後も復帰を狙っていたが、長禄元年(1457年)21歳長禄の変後南朝から神璽を奪還、この時は奪い返され失敗したが、翌2年に再び神璽を奪い、8月30日に朝廷に安置義政はこの功績で10月14日に赤松政則を北加賀の守護に任命赤松氏を復帰させた。8月9日に山名宗全が赦免されているが、これは細川勝元と相談の上で行った懐柔策とされる。

義政には正室の日野富子との間に男子があったが、長禄3年(1459年)23歳に早世してしまった。すると富子は実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪に処した。このため、以後は日野富子や伊勢貞親・季瓊真蘂ら将軍側近の権勢が強まった。また、飢饉や災害が相次ぎ、特に寛正2年(1461年)25歳寛正の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらし、一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。このような状況の中、義政は邸宅や日本庭園の造営猿楽酒宴に溺れていった。殊に寛正の飢饉の間に、それを意に介さずに花の御所(京都市上京区)を改築し、後花園天皇の勧告さえも無視したことは悪名高い。
 寛正4年(1463年)27歳母重子が没したため、畠山義就と斯波義敏父子を赦免した。但し、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認められなかった。寛正5年(1464年)28歳勧進能を行い、同年に隠居を考えるようになり、富子との間に嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ養子として次期将軍に決定した
 ところが、寛正6年(1465年)29歳日野富子に男児(後の足利義尚が誕生した日野富子足利義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼んだ。一方の足利義視管領の細川勝元と手を結んだ。この足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。一方で、足利義視を養子にした理由は大御所として政治の実権を握る意図もあったとされ、足利義尚誕生後も足利義視の立場を変えなかったのは足利義尚が成長するまでの中継ぎにするためともされる。
 寛正2年(1461年)25歳斯波氏の家督交代を行い松王丸を廃嫡して渋川義鏡の子義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方政知の執事である渋川義鏡を斯波氏当主の父という立場で斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、その渋川義鏡は関東で上杉氏と対立し失脚してしまったため、渋川義鏡から斯波義敏に交代して改めて関東政策を実行しようとしたが、反発した渋川義廉山名宗全畠山義就を頼り、大内政弘山名宗全と連携する一方、大内政弘の元に落ち延びていた斯波義敏伊勢貞親季瓊真蘂(きけい しんずい)の画策(武衛騒動)で寛正6年(1466年)30歳に上洛して義政と対面、義政は翌文正元年(1466年)に渋川義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じ斯波義敏を家督に据え越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与えた河野通春を援助して幕府から追討命令を受けていた大内政弘も赦免したが、これは大内氏と斯波氏武衛家)の引き入れを図ったとされる。
 だが、武衛騒動(将軍家家宰の伊勢貞親は義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏<武衛家>のお家騒動に介入し、斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた)をきっかけに発生した文正の政変によって守護大名達の圧迫を受けた伊勢貞親・季瓊真蘂・斯波義敏らは逃亡義政側近層は解体に追い込まれ、手足となる家臣を喪失した義政は完全に政治への意欲を失っていった
 畠山義就山名宗全の呼び出しで上洛、応仁元年(1467年)31歳に義政に家督復帰を許され、反発した畠山政長と合戦に及んで遂に応仁の乱が起こる。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。
 義政は当初は中立を貫き停戦命令を出し東軍の細川勝元に将軍旗を与え西軍の山名宗全追討を命令足利義視が西軍に逃げ込んだこともあり、東軍寄りの態度を明確にした。また、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、文明3年(1471年)35歳越前守護職を与える書状を送っている。文明5年(1473年)37歳、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は将軍職を子の足利義尚へ譲って正式に隠居した

隠居後の文明8年(1476年)40歳花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、日野富子と足利義尚が小川殿へ移ると、義政は富子の居所を造営する。
 文明9年(1477年)41歳応仁の乱は終わるが、足利義尚とはこの頃から意見の食い違いが起こり日野富子とも仲が悪くなって行く。当時は室町殿足利義尚)に対し東山殿足利義政と呼ばれ政治の決定機関が二つに分裂していたようである。そのためか以後は更に文化的な活動に拍車がかかった。
 文明13年(1481年)45歳日野富子から逃れるように長谷の山荘に移り翌年から東山山荘の建築を本格化させるが、諸大名からは石の献上はあっても費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある山城国の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。
 文明14年(1482年)46歳には東山山荘東山殿の造営を初め、祖父義満が建てた金閣をベースにした銀閣を建てた。また同年には、足利成氏と和睦し、享徳の乱を終結とした。文明17年(1485年)49歳に足利義尚の側近奉公衆と足利義政の側近奉行衆が武力衝突する事件が起こるなど、足利義政と足利義尚の対立は激化する。このため、足利義政は剃髪して出家し事実上政務から離れることを決めた

嫡男の足利義尚(改め義煕)延徳元年(1489年)53歳六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが日野富子が足利義政の復帰に反対し更に足利義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃の土岐成頼の下に亡命していた足利義視と和睦し、甥(義視の嫡男)の義材(足利義稙を自らの養子に迎えることで第10代将軍に指名して後事を託した
 延徳2年(1490年)54歳銀閣の完成を待たずして死去

銀閣寺.jpg

幕府の財政難土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

足利義政、{東山文化}の創造のみならず究極的に{日本人の美意識の独自な性格を形成するに当たって重要な役割を果たした

義政が好んだ芸術茶の湯;水墨画;能楽)}は、{【燻(いぶ)し銀】のように【控えめな気品】を備えていた}。

少年期の義政に最も影響を与えた人物は、{乳母の今(いま)参局(まいりのつぼね)(〜1459;名門大舘氏出身;気性が激しい)}だった。

義政の教育主として伊勢貞親(1417〜1473)}が行なった

義政(1436〜1490)}日野富子(1440〜1496)}と結婚した

東山文化1.jpg

能楽.jpg
 東山文化2.jpg

★参考サイト⇒参考ブログ1では本からの言葉の一部をご紹介しています



参考サイト2:こちらです。

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posted by 心野琴線 at 00:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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